Last update:2017.04.05
聖書の箇所がわからず、先週訪れた神戸栄光教会ホームページ掲載箇所を読んでおいたら、正にそれだった。それが聖書日課通りということらしい。
先週のメッセージからのつながりもあり、神戸でのメッセージを思い出す。
「神が仕えてくださっている」とは、今までの自分の解釈と正反対で全くの勘違いだったのだと知った。と同時に、納得もした。感謝†
4/1で東美教会107年を迎えたとのこと。
このタイミングでこの数字に出会うことが何を意味するか…と考えずにはいられない。
昼食会、清掃。膝の痛みにはきくち体操を勧めてくださる方あり。ムーバスの話など、楽しいひととき。
Message Memo
先週は母教会、宇部緑橋教会へ。年に1~2度、信徒として会衆席で出席する貴重な機会。
礼拝=Sunday service("神の"奉仕)神が仕えてくださっている
→応えるために賛美・祈る(cf.ルター95条 礼拝論)
先週の聖書日課:イエスの変容(マタイ17)
何かを守りたいと思ってしまう → 母心からの願い
マタイの編集によって(マルコより後に書かれた)母が受難者。マルコでは本人が願っているし、22節では2人称になっている。→無理解を母(女)に押し付けている?
一番上になりたいものはあなたたちの僕になりなさい
24腹を立てた・・・他の弟子たちも保身・野心満々。よこしま。→周りにいた者みな、イエスの気持ちを理解できていない。
ヤコブ・・・アグリッパ王により処刑される(盃を飲むことになる)
cf.「苦しみに対して憤怒するのは、苦しみの無意味に対して」ニーチェ
私たちは苦難を解釈せずに委ねるのを忘れてしまいがち。
あなたがたの間、私たちの間、間に神が立って仕えておられる。
痛み・苦しみ・弱さ、自分の十字架によって(背負って)ついてきなさい。
なぜ!と十字架上で2度も叫んでいるが、状況を受け入れていた。
東美教会 陣内大蔵 牧師
- 創世記 25:29-34
- マタイによる福音書 20:20-28