Last update:2017.05.16
朝7時前に家を出たが、三島駅の乗り換えで手こずったためギリギリ。それでもなんとか間に合った。
所変われば、雰囲気が変わる。せっかく手渡された「礼拝の心得」なるものも読む間もなく礼拝が始まったため、進行に戸惑った。今頃気付いて、あと少し時間に余裕があったら…と思わずにはいられない。
そんなわけで、少々動揺しつつ拝聴したメッセージ。聞く姿勢が不十分だったのだろう。メモを読み返すと、なるほど頷けるが、責め句のように耳が痛い言葉に聞こえ、ホームシックになっていた。
知っている讃美歌でさえ、違う歌詞だったりして更なる戸惑い。下手に僅かな経験があるがために、邪念が入る。
旅のスケジュール的にも少々無理があり、礼拝後のご挨拶もそこそこに辞すのが申し訳ないようで、そうまでして礼拝を守るべきだったのかと考えてしまった。
メッセージを聞けたことは有意義だったが、余裕を持つか諦めるか、先方にも失礼のない範囲で考えるべきと感じた。
Message Memo
三島教会 新里正英 牧師
アメリカンドリームという言葉がある。
どんな人も平等に成功する機会がある、というのが本来のいみだが、しかし、支配者階級にとって都合のいい言葉ともとれる。
夢を持たせることで、労働者は夢を持って馬車馬のように働くからだ。いつの間にか変質し、弱者が利用されている。
良い思いが、悪い思いに飲み込まれる。→変質しないように!
良い思いにも、罪が隠れている。
パウロはなんとかして救いたい。愚か者のようになろうとし寄り添う。でも、16 本当は愚か者と思ってほしくない。
→ 主の御心に従ってではない。
敢えて「肉に従って誇る」愚か者に。
本来は、誇りを持っても良い。出身、性別、人種など。
しかしそこに罪も隠れている。
信仰的誇りでさえ!
誇ることで誰かを傷つけてしまうことがある。
21 恥ずかしいが、救いたい。→強くあろうとする
19 我慢してくれる → 褒めているわけではない
その先に何がある?幸福追求の権利。
誇りが分派を生み、裁きあっていた。
主の御心によって!神の愛の強さを、十字架に見たのでは?
神の愛は私たちを生かす力がある。
くり返し十字架に立ち返ろう。