Last update:2020.02.04
礼拝メッセージを、音楽ライヴに行くような感覚で聞いているのだけれど、ひょっとすると聖書そのものが、ライヴレポートのようなものなのではないかと感じ始めている。つまり、聖書はイエスの生き方レポート、とでも言おうか。
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書は、イエスについてそれぞれの見方や表現で書かれているから、同じ出来事でも違ってくるのだろう。
同じ音楽を聞いても、感じることが人それぞれ違うように、同じメッセージを聞いても人それぞれに受け取り方が違ったり。
事実をありのままに伝えるのは難しいし、受け取る側の気持ちによってどうしても変化する。だからこそ、その場で生の体験が一番なわけだ。音楽ライヴにしても、礼拝メッセージにしても!
けれどイエスの生き様をこの目で見ることは叶わない。
行けなかったライヴのレポートを読んで想像するように、聖書を通して知るしかない。そこに様々な解釈が生まれる。
田川建三氏の解釈の紹介で、書かれていることだけがすべてではないことに改めて気付く。
Message Memo
新型肺炎のニュースに戦々恐々。
わからないことだらけだが、必要以上に恐れることなく、落ち着いて最新の情報に注意しつつ、気を付けていつものことをやっていこう。
宮清め、とサブタイトルにあるがむしろ宮払い。
イエスの怒り
怒り→箴言29、マタイ5、エフェソ4などには悪いこととして書かれている。
イエスの怒りはどの立ち位置から?
抑圧された弱い者の側から。痛みの共感。放っておけないから行動する。腹わたが動くくらい同情。激昂。
ヨハネによる福音書はこの事件から書かれている。
田川建三の想像的解釈
そばにいたはずの弟子たちは何をしていたか?加勢していない?助けない?
伝承の事件があり、時をかけて伝えられた。
神殿は3区間に壁で区切られていた。
第1:ユダヤ人男性
第2:ユダヤ人女性
第3:異邦人
異邦人たちは商いの喧騒の中で祈らなければならなかった。
ユダヤとサマリアの関係
反目。同じ痛みを知っているはずなのに!
ヨハネ4:20ー 神殿など関係ない。どこででも!
ヨハネによる福音書には、信じるという言葉が多い。
信じるとは従うということ。
上下関係、力関係、人種も関係ない。
イエスという真の神殿。
東美教会 陣内大蔵 牧師
- 列王記上 8:22-30
- ヨハネによる福音書 2:13-25